初めまして。
繊細女性のための「不安回路※」をほどくお手伝いをしております、
心理セラピストの岸田知佐子(きしだちさこ)と申します。※「不安回路」とは、過去の経験から心の奥に定着した「不安になりやすい思考のクセや信念」であり、岸田が編み出した造語です。

私はかつて、HSP(Highly Sensitive Person)という自分の特性を「欠陥」だと思い込み、人生の半分を暗闇の中で過ごしてきました。
幼少期のトラウマをきっかけに「言いたいことを我慢する」ようになり、中学時代のいじめでは大人たちに背を向けられ、深い孤独を味わいました。
社会に出てからも、完璧主義ゆえの心身症や執拗なパワハラ、そしてコロナ禍で暴走した潔癖症に苦しみ、「自分はダメな人間だ」と思い込みながら生きてきました。
そんな中、転機となったのは、HSP専門カウンセラーとの出会いです。
「あなたが悪いのではなく、今いる環境が悪すぎるのです。」
その言葉に魂が震えるほど救われ、私は初めて自分自身を丸ごと肯定することができました。
その後、心理学や潜在意識の学びを通じ、弱点だと思っていた繊細さを「最高のスキル」へと変えることができたのです。
私がどのような悩みを抱え、それをどのように克服し、どのような思いでセラピスト(カウンセラー)になったのか?
ご興味のある方は、以下に詳しいプロフィールを記しましたので、ご覧いただけると嬉しいです。
<詳しいプロフィール>
「私さえ我慢すればいい」:祖母が亡くなったことで刻まれた信念

小学3年の学校帰り、見知らぬ男に「荷物を運ぶのを手伝ってほしい」と声をかけられました。
声をかけられたのが自宅の敷地前だったため、家族の知り合いだと思い込み、警戒もせず付いて行ったところ、自宅の蔵の中で私はチカンの被害に遭いました…。
ようやくおかしいと気づいたとき、必死に「泥棒!」と叫ぶと、男は「泥棒じゃない」と呟きながら逃げていきました。
この時、咄嗟に叫んだ言葉が「チカン!」ではなく「泥棒!」だったのは、今思えば「正体を明かせば殺される」と無意識が判断し、命を守ろうとしてくれた結果だったのでしょう。
結局、犯人は捕まらず、激怒した祖母は「こんな蔵、潰してしまえ!」と言って蔵を取り壊してしまいます。
…その4年後、祖母は病で亡くなりました。
世間から見れば、祖母はただ病で亡くなった不幸な人かもしれません。
けれど、私だけは「おばあちゃんが死んだ原因は、病気なんかじゃない!」と考えていました。
それは、私の住む地域には「蔵を壊すとその家に不幸が起こる」という言い伝えがあったから。
本当のことを誰にも言えないまま、周囲の「蔵なんて壊すから、お気の毒に…」という言葉を、私はまるで自分への罰のように受け止めていました。
「私が被害に遭いさえしなければ、おばあちゃんがこんな目に遭うことはなかったのに…」
祖母に対する言いようのない申し訳なさと、声を上げたことで大切なものを失った喪失感を感じていました。
この出来事を機に、「声を上げると大切な人を失ってしまう、それなら私一人が黙って我慢すればいい」という「不安回路」が深く刻み込まれることとなったのです。
「潔癖症」という名の防衛本能:逃げ場のない教室で感じた「嫌悪」

小学5年の新学期、教卓の真ん前という逃げ場のない席になったことが、悪夢の始まりでした。
その時の担任は、必要以上に大声で授業をする人でした。
ある日、いつものように担任が大声を張り上げて授業を行っていたところ、担任の飛沫が私の新しい教科書に飛び散ったのです!
言葉にできない嫌悪感が全身を駆け巡り、そこから逃げ出したい気持ちでいっぱいでしたが、体が硬直し声を上げることも逃げることもできませんでした。
それだけでなく、
「毎日同じジャージ姿で学校に来る」
「休み時間には教室でタバコを吸う(歯は真っ黄色)」
「体育の授業のため女子が着替えを始めても一向に教室を出ようとしない」など…
私を含め、大半の女子は、担任の存在自体が耐えがたいものでした。
しかし当時は、大人に意見を言えるような時代ではなかったため、私は担任を避け、極力距離をとって我慢していたのです。
そして、この経験が私の中に「潔癖症」という強い防衛本能を形成すると同時に「大人の男には理不尽な目に遭わされる」という「不安回路」を作り上げたのです。
「助けて」が届かない…大人たちに背を向けられた中学時代
中学1年の掃除の時間、不注意で私の持つほうきの柄が男子の胸に当たりました。
すぐさま「ごめん」と謝りましたが、彼はあろうことか、私を「痴女」とはやし立て始めたのです。
それは彼が所属するサッカー部内へ広まり、私は心無い言葉の標的となりました。
勇気を出して担任に相談すると「なかったこと」にされ、母に訴えると「学力で見返しなさい」と突き放されるだけ。
一番の味方であってほしい大人たちに背を向けられ、私の心には「大人は頼りにならない」「どうせ私なんてどうでもいい存在なんだ」という深い諦めと孤独が根を下ろしていきました。
新たな「不安回路」ができた瞬間でした。
一方、唯一の味方は愛猫でした。
家族に隠れて布団で泣く私に寄り添い、「大丈夫?」と問いかけるように顔を舐めてくれた彼女の存在だけが救いでした。

とはいえ、精神的に追い詰められ「命を絶とう」と常に考えるようになっていました。
「生きてても楽しくないし、私なんて死んでもどうせ誰も悲しまない。」
そう絶望しながらも、痛みが人一倍苦手な私には死ぬ勇気さえありません。
結局、加害者たちを殺める妄想をしながら、彼らに学力で負けることだけはプライドが許さなかった私は、孤独と絶望を感じつつも負けん気だけで登校し続けたのです。
「今の自分には価値がない」:親の期待に応えられない劣等感

中学でのいじめに耐え抜き、親の教え通り学業に励んだ結果、進学校に進みましたが、そこで私は挫折を味わいます。
中学校までは成績がよかったのに高校では成績が思うように振るわず、自身の学力レベルの低さに愕然とさせられたのです。
高校3年の夏、やむなく理系から文系へ進路変更をしたことで、現役不合格。
その後、一浪の末にようやく大学合格を掴み取りました。
しかし、念願のキャンパスライフが始まっても、私の心は晴れませんでした。
それは、母が有名大学に進んだ親戚や知人の子の話をするたび、私にはその人物と暗に「比較されている」ようで、劣等感を感じていたからです。
この経験は、私の中に「学歴」という物差しを作り出し、「今の自分には価値がない」というレッテルを数十年もの間、自分に貼り続けることとなったのです。
「私は人より劣っている」:深夜の職場で私が起こした大失態
社会人となり、念願の会社へ就職。事務部門に配属となりました。
当時は、Windows95の導入期。
パソコンに不慣れで思うように操作ができなかった私は、常に焦りと緊張感の中にいました。
責任感が強く完璧主義のため、「期待に応えなければ」と肩に力も入っていました。
そのせいで、上司の何気ない「進捗どう?」という言葉が、「まだできないの?」という無言のプレッシャーに聞こえ、段々と余裕を失っていきました。
そんなある日、取引先へ持参する大切な原稿を紛失するという大失態を犯してしまいます。
上司3人を巻き込んだ大捜索の末、原稿はゴミ箱の中に!
「なんでこんな所にあるの?」私には捨てた記憶が一切なく、完全に思考が停止。
同時に、「クビだ…」という思いが頭の中を駆け巡りました。
幸い解雇は免れましたが、上司に叱責されている最中に言われた「君はいつも人のせいにする!」という言葉が心に引っかかりました。
「私がいつも人のせいにするって、どういうこと?」
身に覚えのない言葉を言われ、納得がいかないながらも反論などできる立場ではなく、ただ沈黙するしかありませんでした。
この出来事により「私は人より劣っている」。だから「人の何倍も努力しなければ居場所を失う」という強い恐怖心が芽生え、これが「不安回路」を増幅させていきました。

「もう頑張らなくていいよ」(強制終了):心身症からのメッセージ
「資格という武器さえ手に入れれば仕事ができない自分を卒業し、立派な社会人として認められるはず」
先の大失態を教訓に、そう考えた私は会計事務所へ飛び込みました。
これもまた「何者かにならなければ、ここに居てはいけない」という「不安回路」によるものでした。
ある日、お客様のためにと思いながら帳簿の訂正をしていると、「そんな細かいところに時間をかけなくていい!」と一蹴され、進捗をチェックされるように…。
そうして徐々に「やっぱり私は仕事が遅くて役に立たない人間なんだ」と悔しさで押しつぶされそうになっていったのです。
その悔しさをバネに、退勤後は専門学校で税理士試験の勉強にも励みましたが、5年経っても結果は出ません。
それでも「今ここで諦めたらバカにされる」という「不安回路」も私を縛り付けていました。
そんなある朝、突然、体に異変が起きたのです。
体は鉛のように重く、天井を見つめたまま指一本動かせない。
診断の結果は「心身症」。29歳のことでした。
休職を余儀なくされ、居場所を失う不安におびえる私。
そんな心配をよそに、職場の人たちは私の復職を待ってくれていたのです。
しかし、皮肉なことにその優しさが「復職のプレッシャー」と「申し訳なさ」になってしまい、結果的に、あれほど固執していた「居場所」を自ら手放し、退職を選んだのです。
その決断は、「もう頑張らなくていいよ」という心と体からのメッセージによるものだったのかもしれません。

「ボロボロのキャリアと自尊心」:焦燥感からさまよい続けた30代
心身症から復活した私は、「次こそは!」という思いで社会へ戻りました。
出向先での債権回収業務で初めて仕事ぶりを評価され、事務リーダーを任されたとき、暗闇の中にかすかな光を見いだしました。
しかし、ようやく掴みかけた自信も、あっけなく「業務終了」の宣告で打ち砕かれてしまいました。
出向元に戻り、次の出向先が決まるまでの待期期間は仕事をさせてもらえず…。
忙しく働く同僚の横で「何もしなくていい」時間は、まるで自分の存在価値を否定されているようで屈辱的でした。
ここから私の人生は、「居場所を見つけては失う」という負の連鎖に陥っていきます。
「自分にはこれしかない」と消去法で戻った会計事務所では、過去の失敗がフラッシュバックし、萎縮してミスを重ねる悪循環…。
資格を武器に挑んだ保険営業では、「お客様への誠実な貢献」よりも「強引な契約獲得」の方が評価されるという始末。
どれほど環境を変え、資格という武器を手にしても、なぜか理不尽な目に遭い、職場を転々とすることになったのです。
そんなことを繰り返した結果、キャリアを築くべき大切な30代は、一貫性のない経歴書とボロボロになった自尊心だけが残る「迷走の時期」となってしまったのです。

「自分を守るために闘う」:理不尽なパワハラの末に生まれた覚悟
母の知人だった社長から声を掛けられ、入社した不動産会社。
しかし、ようやく見つけたはずの居場所もまた、落ち着けない場所となりました。
きっかけは、私が業務中に自身の不甲斐なさを嘆いてこぼした、些細な一言。
それを「説明が下手だと言いたいのか!」と自分が責められたと誤解し激怒した上司は、その日から私を無視するように…。

「私が悪いわけじゃないけど、ここで生きていくためには謝るしかない。」
そう自分に言い聞かせ、誠心誠意謝罪した後は、上司の怒りがおさまるのをひたすら待ちました。
上司に無視され業務の相談ができない私の唯一の支えは、日々変更される気まぐれな指示に必死で食らいついていくために書き留めた、自作の「マニュアル」でした。
しかし、その懸命な努力の結晶さえも「体で覚えろ!」という罵声とともに奪い取られたのです。
そのときついに、これまで受けていた理不尽な扱いに対する我慢が限界に達し、こらえていた怒りがおさまらなくなりました。
両親に相談すると、両親は私の代理で法テラスに足を運んでくれました。
そこで担当して下さった弁護士の方は、
「お嬢さんは悪くありません。そんな環境では誰だって仕事ができなくなります。命を守るために、すぐ対処すべきです。」
そう言って下さったそうです。
その言葉を父から聞いた瞬間、「私はダメ人間なんかじゃなかったんだ!」と心底救われた思いがし、安堵したことを忘れもしません。
そして「社長に話をつけようか?」と心配する両親に、私はこう答えました。
「大丈夫。私はこんな卑劣な人間のせいで死んだりしないから。」
心に深く突き刺さっていたトゲが抜け、私の中で初めて「自分を守るために闘う」という覚悟が生まれた瞬間でした。
「HSP」:長年生きづらいと感じていた正体はこれだった!
それから数か月が経った、2017年初夏。
私は、新聞の広告欄で「HSP(Highly Sensitive Person)」という言葉に出会いました。
吸い寄せられるようにネットで検索し読み進めると、目を見開くほどの衝撃を受けたのです。
「私が生きづらかった原因はこれだったんだ!」
HSPについて調べるうち、HSP専門のカウンセラーである武田友紀さん※の存在も知りました。
※2021年9月、「繊細さん」という名称は武田友紀さんが商標登録されています。
当時、資格試験に合格し転職を考えていた私は、早速、彼女のカウンセリングを受けるため、大阪から東京へと向かいました。
カウンセリングでは、自分では気づけなかった特性や適職についてのアドバイスをもらいました。
しかし、何より私の魂を震わせたのは、彼女が真っ直ぐに伝えてくれた次の言葉でした。
「岸田さんのこれまでのおこないは何も間違っていませんよ。」
「今いる環境が悪すぎるのです。今すぐ環境を変えましょう。」
その瞬間、こらえていた涙があふれ出し、止まらなくなってしまいました。
彼女は私のこれまでの生き方だけでなく、「私」という存在そのものを丸ごと肯定してくれた、初めての大人だったからです。
帰路の新幹線でも、その言葉を思い出しては涙が止まらず、長年抱えてきた様々な、そして複雑に絡み合った「不安回路」が、少しずつ涙によって溶解していくように感じられました。

「私はダメ人間じゃない」:そう教えてくれたのは”お客様”
東京でのカウンセリングの翌日、出社した私を待っていたのは、奇跡のような出来事でした。
なんと、それまで苦しんできた事務部門から営業部門への異動の辞令が下りたのです!
さらに、現実の変化だけでなく、気持ちの面にも変化が起こりました。
前日のカウンセリングで自分への誇りを少し取り戻せたおかげでしょうか。
「転職先を探しながら営業職に挑戦してもいいかな」と、不思議と前向きな気持ちになり、退職を思いとどまったのです。
不動産営業は初体験でしたが、お客様との関係構築は驚くほどスムーズにできました。

事務職で裏目に出ていた「細かいところが気になる」という特性が、営業職では「細かいところにまで気配りができる」という長所として活かせたからでした。
HSPの気質を存分に発揮したことで、お客様から感謝の言葉をたくさんいただきました。
そうして、ようやく気づけたのです。
「そうか!私が仕事ができなくて自分をダメな人間だと思っていたのは、その仕事が私の特性に合っていなかったからなんだ!」
自尊心を取り戻し、仕事での成功体験を積み重ねることができた私は、カウンセリングを受けた約1年後、晴れやかな気持ちでその不動産会社を卒業したのです。
「不安回路」の暴走:コロナ禍に直面した親子関係の危機
仕事での人間関係がようやくうまく回り出した矢先、今度は家庭で問題が発生しました。
2020年5月、コロナ禍。
幼少期から抱えていた潔癖症という名の「不安回路」が暴走を始めたのです。
連日メディアから流れる根拠のない情報や数字に翻弄された私の「不安回路」は、「潔癖症」を「不潔恐怖症」(強迫性障害)レベルにまで押し上げました。
さらに、崩壊寸前の精神を爆発させたのは、同居する父の行動でした。
衛生観念が私と真逆な父は、帰宅後の手洗い・うがいという世間一般のルールさえ守ってくれません。
「家族が大事なら手洗い・うがいは当然できるはず。」
「それができないなんて、単に習慣化するのが面倒なだけ。そんな自己中心的な考え方は配慮がなさすぎるし、許せない!」
そんな怒りと不信感を父に抱くようになり、ある時ついに、父へ暴言を吐いてしまったのです。
父と大喧嘩になり、泥沼の冷戦状態へ。
顔を合わせないよう食事の時間をずらし、会話をしない父と娘の間を取り持つ母に大きな負担をかけてしまいました。
私はまたしても「こんなことになったのは私が潔癖症だからだ」と、自責の念にさいなまれるようになっていったのです。

「私が変わるしかない」:決意した私に起こった変化
八方塞がりの状況で、私は「自分が変わるしかない」と決意しました。
でも、「潔癖症」があることで外出が怖くてカウンセリングにすら通えない。
ならば「自分で自分をカウンセリングしよう!」と、オンラインでNLPや潜在意識、量子力学などの講座を片っ端から受講したのです。
特に、NLP(神経言語プログラミング)のアプローチは効果がありました。
五感の捉え方を変えることで、過去の出来事によって作られた「不安回路」を書き換えていくのです。
また、潜在意識の深い部分にアクセスし、これまで無視をしてきた感情に気づき、肯定(受容)し続けることで、自分を苦しめていた「価値観」も徐々に手放していきました。
例えば、「潔癖症」については、こんな風に変化していきました。
「私は、潔癖症を治したいと思ってきた。『治す』とは、『潔癖症ではなくなる』ということ。
つまり、『汚いものに触れても平気で生活や食事ができるようになること』。
でも、本当にそれでいいのか?聖域だと考えている自分の部屋にある大事なものも、その汚い手で触れることになるけど、本当に潔癖症じゃなくなってもいいのか?」
すると、私の潜在意識(本心)は「それはイヤだ!」と答えたのです。
そんな風に、視点を変えることや潜在意識の声を聴くワークなど、様々なことを試すうち、私は「潔癖症のままでいい」と思うようになったのです。
心理学を通じて「潔癖症は私を苦しめる悪者ではなく、私を命の危機から救うために警告を発してくれる『味方』だった」ということに気づき、潔癖な自分を肯定できるようになったのです。
その結果、2020年にはコロナ感染への恐怖から「ひきこもり状態」だったのが、2024年には「接客業」ができる状態までに回復。
そして2026年現在、父の衛生観念は以前のままにも関わらず、私自身の潔癖症がかなり緩んだことで穏やかに同居できている、という状態です。

「大人は信用できない」:それは単なる思い込みだった…
心理学を学ぶ中で、トラウマを解消するためのワークに取り組んでいた時のこと。
それまでは「知りたくもない」と頑なに拒絶し続けてきた『いじめ』について、「今の私なら受け止められるかもしれない」という気持ちになった瞬間がありました。
そこで、勇気を出して母に詳細を確かめたところ、私は驚くべき事実を知ることになります。
実は、母は密かに、教頭先生へ私のことを相談してくれており、教頭先生もまた、私を影で見守り続けてくれていたというのです。
さらに、中学3年時には、担任の先生が校長の目の前で、反省のかけらもない加害者たちを本気で叱り飛ばしてくれていた、という事実も知りました。
「誰も助けてくれない。大人なんて信用できない」と思っていたのは、当時の私の「不安回路」が見せていた、たった一つの側面に過ぎませんでした。
本気で私を守ろうとしてくれた大人がいたという真実を知ったとき、長年の人間不信はスッと解け、心からの感謝へと変わっていきました。
この気づきが、私の人間関係をより温かく、安心できるものへと変える第一歩となったのです。

「今の自分には価値がない」:その真意を知ったとき…
かつて私を縛っていた「学歴」や「能力」という物差しも、心理学を通じてその真意を読み解くことで、少しずつ形を変えていきました。
大きな助けとなったのは、「自分の問題」と「相手の問題」を分けて考える視点です。
例えば、誰かの不機嫌はあくまでその人の心の問題であり、必ずしも自分のせいではありません。
自分ではコントロールできない「相手側の事情」を切り離すことで、必要以上に自分を責めたり、相手に振り回されて消耗したりすることがなくなります。
この視点で、学生時代に感じた「自分には価値がない」というレッテルを見つめ直したとき、潜在意識から一つの答えが湧き上がってきたのです。
「母は、自分が叶えられなかった夢を私に託しただけなのではないか?」
母は高校時代、非常に優秀であったにもかかわらず、家庭の事情で四年制大学への進学を断念しました。
その雪辱を果たすため、娘の私には「何としても成功してほしい」と願っていたのでしょう。
しかし、それはあくまで母自身の心の問題であり、私自身の価値とは無関係なのだと気づいたのです。
そして、この気づきを得たことで、長年私を縛り続けてきた母への複雑な思いがスッと解け、「自には価値がない」というレッテルを剥がすことができたのです。
このように、自分の「不安回路」をほどき、ありのままを受け入れられるようになると、現実も呼応するように動き出しました。
あんなに衝突していた父とも、今では冗談を言って笑い合える。
そんな穏やかな変化の連鎖が、私に”ある確信”をくれました。
それは、「過去は変えられなくても、その意味は今ここから書き換えられる」ということ。
この安らぎを胸に、私はかつて「欠陥」だと忌み嫌っていた自分の特性を、ようやく受け入れられるようになったのです。
【現在】HSPを味方につけて~笑顔で穏やかに生きるために~

ここまで私の詳細なプロフィールを読んで下さり、誠にありがとうございました。
私の場合は、HSP専門カウンセラーの武田友紀さんとの出会いが人生を劇的に変えるきっかけとなりました。
彼女に親身に気持ちを聞いてもらい、私のすべてを肯定してもらえたことで自尊心を取り戻しました。
そして、心理学によって「不安回路」を解きほぐし、気付きを得ることで徐々にそれらを書き換えていった結果、世界の見え方が驚くほど優しいものとなり、生きやすくなりました。
いま、ここまでの人生を振り返り、腑に落ちていることがあります。
それは、「HSP気質の人は、どんな場面でも重宝される『最高級のスキル』を持っている」ということ。
仕事で多くの方から感謝の言葉をいただけるようになった私の実体験が、何よりの証拠です。
そう思えるようになった今、私はカウンセラーとして活動しています。
現在は、かつての私と同じように、『理不尽な出来事に対して「私が悪いのかな」と自分を責め続けてしまう繊細な女性へ、心の奥の「不安回路」をほどき、笑顔で穏やかな日常を取り戻す』お手伝いをしております。
もし、今この瞬間もHSPの特性に振り回され、苦しみの渦中におられるのだとしたら、それはあまりに「もったいない」と感じるのです。
なぜなら、人は誰でも「少し視点を変えるだけで幸せに生きられる」から。
ただ、そうなるためには、ほんの少し勇気を振り絞って、一歩踏み出すことが必要だと思っています。
もし、「一度ゆっくり話を聞いてほしい」とか、「体験談をもっと詳しく聞きたい」と思われたなら、まずはお試しカウンセリングへお越しください。
その際、無理に心の内を聞き出すことはいたしませんので、どうかご安心ください。
話したくないことは、話さなくても大丈夫です。
あなたのペースで、今の等身大の想いをお聞かせくださいね。
お目にかかれる日を、心よりお待ちしております。
